常磐紀行(3)
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常磐紀行(2)から続く。

いわき市勿来文学歴史館からタクシーに乗り、本日の宿泊地である茨城県平潟港に向かう。

地形的に恵まれた平潟港は、東北諸藩の米を江戸に運ぶ東廻り航路の重要な中継点として栄えていたが、明治30(1897)年に現在の常磐線が開業すると寂れてしまう(詳しくは、このウェブサイトを参照されたい)。けれども、アンコウの水揚げ高は全国屈指とのことで、旅館や民宿では名物のアンコウ鍋を食べさせてくれる。

我々が泊まったのは、港に面した砥上屋旅館。もとは幕末に建てられた料亭だったとのことで、木造3階建ての風情ある建物だ。塩辛い温泉に一浴した後、4人で夕食。アンコウの肝や刺身など一品に加えてメインとなるアンコウ鍋。始めてアンコウ鍋を食べたが、クセになりさうな味である。また、あん肝も妙なクドさがなく、居酒屋で今日されるものとは全く違う。加えて、地酒も旨い。

残った一品と酒とを部屋に持ち帰り、チビリチビリと飲んでいるうちに眠くなったので床に入る。

翌朝は5時半過ぎに目が覚めたので、港周辺を散歩。朝日が太平洋に輝いており、すがすがしい気分になる。宿に戻って朝風呂、そして朝食。あら炊きをはじめ、種々のおかずが並んでおり、ついつい御飯のお代わりを重ねる。

9時少し前に宿の老主人に鳴砂で知られる長浜海岸まで送ってもらう。だが、ちょうど引き汐になり始めたばかりで砂が湿っており、殆ど音がしない。

今でこそ、犬を散歩させたり、釣り糸を垂れたりと穏やかな風景の広がる長浜海岸一帯であるが、大東亜戦争末期には陸軍が開発した風船爆弾の放球基地(大津基地)が置かれていたという。水素ガスを充填した直径10メートルほどの和紙製気球に爆弾(2キロ焼夷弾2個・殺戮用15キロ爆弾1個)を吊り下げ、ここから偏西風(ジェット気流)に乗せてアメリカまで飛ばした。海岸から少し南に「風船爆弾放流跡地・忘れじ平和の碑」が建てられている。

放球基地は、前日に訪ねた勿来のほか千葉県一宮町にも存在したという。合わせて3カ所の基地から約9000個が放たれ、約1割ほどはアメリカ大陸に到達したとされる。連合国側に与えた被害は6名の死者と小規模の山火事などに過ぎなかったが、弾頭の代わりに毒ガスを搭載すれば大量殺戮も可能となるためアメリカ側は非常に警戒したようだ。

櫻井誠子『風船爆弾秘話』(光人社)によれば、風船爆弾の製造は、全国各地の工場で勤労動員の女学生たちによって行われたという。コンニャク糊に含まれるホルマリンで手の甲に火傷を負ったり、ヒロポン(覚醒剤)を飲みながら健気に働いた。中には、米軍の空襲で命を失った者もいる。祖国の命運をかけた大戦争であるとはいえ、哀しく辛い話だ。

常磐紀行(4)に続く。
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常磐紀行(2)
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常磐紀行(1)から続く

いわき市勿来関文学歴史館の前でタクシーから降りる。館内では「百人一首」に関する企画展が開催されており、かの愛国百人一首など関連する様々なカルタが展示されていた。また、常設展示室では、勿来関を詠み込んだ19の歌の世界が映像などにより表現される。義家のもの以外にも名歌がある。
をしめどもとまりもあへず行く春を名こその山の関もとめなん(紀貫之)
「な来そ」という掛詞に惜春の思いが感じられる。続いて、恋の歌を二つ。
よひよひにかよふこころもかひぞなきなこその関のつらきへだては(大僧正頼意)
名こそとはたれかはいひしいはねども心にすふる関とこそみれ(和泉式部)
女のガードが堅いと嘆く男と、プライドにこだわる男を詰る女。いつの世も男女の仲は同じらしい。因みに[日野]頼意は南朝の重臣。南朝といえば、「君がため世のため何か惜しからむ捨ててかひある命なりせば」という歌で知られる宗良親王(後醍醐天皇の皇子)にも勿来関を詠み込んだ作品がある。
あづま路とききしなこその関をしも我が故郷に誰かすゑけむ
京都を足利方に奪われつつも、失地回復の戦いを続けられる皇子の御心が偲ばれる御歌だ。

文学歴史館の裏手は広場となっており、木立の合間から太平洋を望むことが出来る。広場の左手に建つ「勿来植桜記」という石碑の撰文に「田中巴之助」という文字を見つけて驚いた。田中巴之助とは、明治の中頃から昭和10年代にかけて日蓮主義を鼓吹した田中智学の本名である。

智学は、狭い意味での宗教活動だけでなく、様々な文化活動をも展開しているが、自身の遠祖でもある義家ゆかりの関跡に桜が少ないことを嘆かわしく思い、同志の協力を得て山全体に約1000本の桜を植え、大正14(1925)年4月に石碑の除幕式を実施した。
開式の宣言に次で、高知尾執事の経過報告がある、次に山川[智応]社長の式辞、次に立正歌第三章「振作更張」の吹奏、次に除幕、この時予は式衆一同を引率して碑前に進んだ、(中略)予は除幕の辞を朗読した、この朗読が終ると、蓮代[智学の三女]が碑前に進んで幕の綱を截る、幕はみごとに落下して碑の全部が心地よく現はれた、瞬間蓮代の散らした金銀紅白の天華と同時に、碑の蔭より十五羽の鳩が羽ばたき勇ましく上空に舞ひ上る、同時に烽火が山々に轟き渡るその光景、厘も隙のない調和と整斉、群衆あッと言ッて感歎の声、期せずして万歳の歓呼となり、つゞいて山岳を振揺るがす拍手はしばし鳴りもやまなかッた、その中から鼕々(とうとう)と鳴りわたる楽座の太鼓に笙の音喨々(りやうりやう)と起る、予等は徐(しづか)に席に復すると共に、つづいて陪臚の舞楽となッた、両舞手の舞振りは此日特にあざやかに、義家朝臣のむかしを偲ぶばかり、一舞一踏楽調正しく、一曲に舞ひ終る、潮の如き観衆はなだれを打ちながらも静粛の態を失はなかッた、これがすむと祝辞となり、第一に内務大臣若槻礼次郎氏の祝詞、第二に文部大臣岡田良平氏の祝詞、第三に福島県知事香坂康正氏の祝詞で、(中略)次に予の山上演説は約一時間、或は壇上に或は階段に或は平地に、縦横往来して万丈の気炎をあげた〔田中智学「勿来の旅」〕
下の写真からも窺われるように盛大な式典で、近在の町や村から数万人の観衆が詰めかけたという。



智学は、山上演説において、マルクス主義を中心とする「食物本位の思想」を捨て、義家精神に立ち返るべきだと強調する。
義家が、今申した通り朝廷の廟議が私の闘ひであると言ッて之を擯斥したにも拘らず、一言の怨みも言はずに、私財を以ッて国家に成り代ッて勲功のある将士を賞与して、縁の下の力持ちをして、一言たりとも怨みもしなければ功にも誇らなかッたといふ、これが本当の日本国民である、打算的に、権利的に、何でも権利権利と言ッて人間を権利でもッて換算しようとして考へたのは、食物本位の思想である。食物本位の思想は禽獣の思想だ、禽獣は食物を漁るより外に何も仕事がない、人間も亦食物本位であるといふ彼のマルクスの主張するやうな議論は、人を駆けッて禽獣たらしむるものである(拍手)。禽獣になッてそれで平気で居るやうな、低級な堕落した国民を何千万有して居ッても、国は既に滅びて居るのである(拍手)。宜しくこの国の使命を体し、建国の精神に則ッて、今の義家の性格を私が七つ算(かぞ)へた、「敬神」と「誠忠」と「武勇」と「仁慈」と「寛宏」と「文雅」と「機略」と、これが日本人のあらゆる階級を通じて、この七つの徳が現れて居らんければならぬ〔田中「勿来史蹟の顕彰」〕
ここではマルクス主義だけが問題とされているが、資本主義もまた「食物本位の思想」に過ぎないのだ。

「勿来植桜記」の石碑を挟むように、「田中智学の源義家顕彰碑」と記された石柱および「吹く風を〜」の歌碑が建っている。前者は智学の三男である里見岸雄により、後者は智学の娘たちによって建立されたものだ。願わくば、桜とともに彼らの思いが継承されんことを。

常磐紀行(3)に続く。
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常磐紀行(1)
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吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山ざくらかな(源義家)
母親の快気祝いを兼ねて、家族4人で去る12日から1泊2日の旅行に出掛けた。めいめい好みの駅弁を買い、上野駅12時発の「スーパーひたち23号」いわき行きに乗車。天気は快晴。遠くには筑波の山。列車は梅花咲く偕楽園の脇を抜け、北茨城の海岸線近くを走る。

福島県に入った列車が勿来(なこそ)駅に着いたのは、13時57分であった。源義家の像が建つ駅前から、タクシーで勿来関跡に向かう。勿来関は、白河関(しらかわのせき)および鼠ヶ関(ねずがせき)と合わせて奥州三関と称されている。この関より北側は「みちのく」であり、蝦夷(えみし)と呼ばれた原住民たちは朝廷に対して長らく叛乱を繰り返す。 ― 「なこそ」という名じたい、蝦夷が「な来そ(=来るな)」との思いを込めて付けられたとも云われる。

そうした叛乱の中でも、11世紀後半に起こった2度の戦乱は非常に大規模なものだった。俘囚(朝廷の支配下にある蝦夷)の長と云われた安倍頼時は、陸奥国奥六郡(現在の岩手県中部)で勢力を振るっていたが、貢租を滞納するなど国司の統制に服さなかった。これに対し、朝廷は清和天皇の子孫である源頼義を陸奥守・鎮守府将軍に任命して討伐させる。安倍氏は頼義の武威に畏れをなして降伏するも、頼義が平安京に戻る直前の天喜4(1056)年に再び叛いたため、頼義は同地に踏み留まって鎮圧した。世に言う「前九年の役」である。聞くところによれば、元首相の安倍晋三氏は頼時の末裔らしい。「真正保守」派の有力人士が逆賊の後裔とは不思議な因縁だ。

義家は頼義の嫡子であり、20代前半で「前九年の役」に従軍してもいる。同時代人から「天下第一武勇之士」(『中右記』)と評価されるほどの個人的能力に加え、父から受け継いだ財力や精強な家臣団(東国武士が中心)を背景に武将としての高い名声を得た。永保3(1083)年に陸奥守・鎮守府将軍として現地に赴任すると、安倍氏に代わって勢力を伸ばした清原氏の内紛に介入する。この戦いを「後三年の役」と呼ぶが、朝廷は「義家の私戦」として恩賞を与えなかった。折しも、白河上皇による院政が始まった時期であるが、源氏の擡頭を快く思わない勢力が朝廷内部に存在したのであろう。やむを得ず、義家は私財を投じて兵士たちに恩賞を与え、却って源氏の声望は高まった。〔安田元久『源義家』(吉川弘文館)参照〕

と同時に、義家は文才にも優れていたようで、陸奥国へ下る途中に詠んだ本文冒頭の歌は勅撰集の一つである『千載和歌集』に「陸奥国にまかりける時、勿来の関にて花の散りければよめる」との詞書と共に収められている。

実を云うと、勿来関の正確な所在地は明らかになっておらず、花の散る時期に義家が陸奥国に下向したという記録もない。だが、平安時代から歌枕とされ、江戸時代には関跡が整備された。前に書いた弁慶の話ではないけれども、歴史は分からないことばかりだ。

常磐紀行(2)につづく。
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生まれるもの、消えゆくもの…
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西田幾多郎哲学記念館からタクシーで宇野気駅に戻る。次の金沢方面行きまで30分ほど時間がある。駅の窓口で翌12日で廃止される寝台特急「北陸」の寝台券に空きがあるか聞いてみる。1ヶ月ほど前の時点で売り切れており、全く期待していなかったが、驚くべきことにB寝台の下段が2つあるという。土壇場でキャンセルが出たらしい。すかさず1枚購入(写真)。実に運が良い。

金沢方面行きの列車は3分ほど遅れて16時10分過ぎに宇野気駅を発車。3つめの津幡駅で直江津行きに乗り換えて17時39分に富山駅着。

駅前にある路面電車の停留所で暫く待っていると、「環状線」という表示の洒落た電車が滑り込んできた(写真)。富山市には大正2年から路面電車が走っており、最盛期の昭和30年代後半には11キロの路線網を有していた。その後、モータリゼーションの進展により路線の廃止が続いていたが、市街中心部の活性化を進める富山市の後押しもあり、昨年12月23日に0.9キロの新路線が開業し、セントラムと名付けられた。

因みに、高齢化社会に対応すべくコンパクトシティを目指す富山市は鉄軌道に対する支援に力を入れており、旧JR富山港線をポートラムとして再生させている。

2両編成の電車に乗っているのは、小生を入れて10人ほど。環状線を一周したが、乗降客は多くない。些か心配になるが、平成26年の北陸新幹線開業に合わせて富山駅は高架化され、ポートラムとの乗入れも計画されているというから今後に期待したい。

市内のスーパー銭湯で一浴し、駅前の居酒屋でホタルイカの沖漬けなどをつまみに一杯。氷見の寒ブリが品切れで食べられず、心残りである。

みぞれが降る中、23時少し前に富山駅へ。ホームにはカメラを片手にした人がチラホラ見える。定刻から10分ほど遅れた23時10分過ぎに先発の急行「能登」が入線(写真)。かつての特急「こだま」を思い起こさせるボンネット型の車両も、ダイヤ改正で「能登」が廃止されるとともに引退となる。「能登」も満員と聞いていたが、車内はガラガラ。噂通り、買い占めた人間が居るらしい。迷惑な話である。

続いて、寝台特急「北陸」が10分遅れの23時20分頃に到着。8号車4番下段の寝台に潜り込み、浴衣に着替える。検札に来た車掌から「乗車証明書」を貰う。実際に乗った人しか貰えないとのこと。寝酒のハイボールを飲み、列車の心地よい揺れを感じながら眠りに落ちる。

翌朝5時30分過ぎに目が覚めると、群馬県の渋川駅に停まっていた。本来なら大宮駅近くを走っていなければならず、だいぶ遅れている。やがて、車掌の「おはよう放送」が入る。信越本線の強風で大幅に遅れているので、急ぐ場合は高崎から上越新幹線に乗るよう誘導されるが、「長く乗れるので、かえって嬉しい」などと思う。

高崎駅には1時間30分以上遅れて6時20分頃に到着。3分の1ほどの人は下車したが、残りは車内に残っている。私と同じ了見の人たちだろう。すっかり外は明るくなっており、ホームは臨時の撮影会場と化している。私も機関車を撮影。激しい雪の中を走行してきたらしく、ヘッドマークが雪まみれである(写真)。

結局、6時50分前に高崎駅を発車。昨晩、津幡駅で買った「きびあんころ」を食べる。包みは昔ながらの竹皮だ。きび粉が練り込んであるとのことで、上品な甘さ。後で調べてみると、100年前と同じ製造法で作られているという。

続いて本庄駅に停まり、上野・新宿方面への通勤電車に先を譲る。いつもなら特急列車が普通列車に抜かれることなどないが、通勤時間帯のダイヤを乱すわけにはいかぬ。通勤ラッシュも一段落した8時30分過ぎに本庄駅を発車。前の列車が詰まっているせいで、ゆっくりとした走りである。別に急ぐこともない。寝台で仰向けになって、携えてきた本を読む。

結局のところ、上野駅に着いたのは3時間半以上遅れの10時過ぎ。13番ホームには友人のO君が待ってくれていた。「能登」と「北陸」の撮影をするために6時前から上野駅で待機していたらしい。彼によれば、先発の急行「能登」は定刻から20分ほど遅れて6時30分過ぎに到着したとのこと。どうやら、わずかなタイミングのズレが大きな遅れを引き起こしたようだ。まあ、寝台列車の雰囲気を堪能できたので良かったとしよう。

昨3月13日にJRグループのダイヤ改正が行われた。ブルートレインとして我が国の高度成長を支えてきた寝台特急も、今や6列車(「トワイライトエクスプレス」「日本海」「カシオペア」「北斗星」「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」)を残すのみである。世の流れではあるが、些か寂しい。
| 旅の思い出 | 23:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
宗像大社(辺津宮)参拝、そして小倉で一献。[2月15日]
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九州新幹線全通を翌年に控え、博多駅は様変わりしつつある。筑紫口側の商業施設・デイトスも改装され、2階には「博多めん街道」なる食堂街がオープンしていた。

その一角にある「博多新風」でスバリスト君と昼食。南区高宮にある本店にも行ったことがあるが、なかなか旨いラーメンを食わせてくれる。本日は、デイトス店限定という「和風豚骨」を選んだ。豚骨と魚介系の風味が存在感を保ちつつも良い感じに混ざり合っている。ついつい、替え玉を頼んでしまう。

博多駅13時40分発の快速に乗り、14時9分東郷駅着。北口のバス乗り場で宗像大社方面行きの時刻を確認するも、行ったばかりなのでタクシーに乗車。

約10分ほどで宗像大社(辺津宮)に着く。このような書き方をするのは、筑前大島にある中津宮、沖ノ島にある沖津宮を併せて宗像大社と称するからだ。宗像三女神とも呼ばれる田心姫神(たごりひめ)…沖津宮、湍津姫神(たぎつひめ)…中津宮、市杵島姫神(いちきしまひめ)…辺津宮を祀る同社は、全国に約7000あるといふ宗像神社の総本社でもある。記紀によれば、この三柱の女神は天照大神が弟神である素戔嗚尊の持っていた剣を噛み砕いたことによって生まれたという。この神々を祀っていた胸形(宗像)一族と皇室との関係が窺われる。なお、胸形一族は素戔嗚尊の末裔とされ、出雲とも縁故があったようだ。

まずは、神門をくぐり参拝。本殿・拝殿(写真奥)ともに安土桃山時代(16世紀後半)の建築で、国指定重要文化財である。引き続いて、沖津宮と中津宮の御分霊を祀る第二宮(ていにぐう)・第三宮(ていさんぐう)、女神が降臨されたと伝えられる高宮祭場を巡拝。高台に位置する露天の祭場は、神籬(ひもろぎ)・磐境(いわさか)の姿を今に残し、北方には玄界灘が広がっている。

祈願殿で御朱印などを受けた後、神宝館を見学。受付の老人にスバリスト君と私との関係を「親子」と勘違いされる。叔父と甥ならともかく、そんなに私が老けて見えたのだろうか…。1階には地図があり、辺津宮と中津宮の鎮座する筑前大島、沖津宮の鎮座する沖ノ島を結んだ延長線上に朝鮮半島が位置することが図示され、宗像大社と朝鮮半島との関わりの深さを実感する。2階に上ると、沖津宮の鎮座する沖ノ島から出土した品々が展示されている。沖ノ島では、4世紀後半から大和朝廷によって祭祀が行われてきた。4世紀後半と言えば、公開土王(好太王)碑文にもある通り、大和朝廷の勢力が朝鮮半島に及んでいた時期である。日本列島と朝鮮半島との中継点として、沖ノ島の意味は非常に大きかったはずだ。皇室と宗像氏との結びつきも強まったようで、7世紀には宗像徳善の娘・尼子姫が天武天皇の后となり、高市皇子を産んでいる。663年に起こった白村江の戦いでも宗像氏は大きな役割を果たしたことだろう。3階には中世に記された文書と共に、沖ノ島の近くで行われた日本海海戦に関する展示もなされている。沖ノ島では同海戦があった5月27日に大祭が行われ、普段は立ち入ることの出来ない島にも上陸が許されるとのこと。機会をつくって、是非とも一度は沖津宮に参拝したい。

帰りは1時間に1本しかないバスを捕まえて東郷駅に戻り、そこから小倉駅に向かう。小倉駅17時12分着。改札口まで和服の上にコートを召された新風福岡の菊池幹事長が迎えに来て下さる。駅前のデパート最上階にある「鮮魚旬菜 益正」で一献。北九州工業地帯が一望できる。20時過ぎの新幹線を予約しておいたが、政治情勢からプライベートまで話が盛り上がり、21時29分発の新大阪行最終「のぞみ」に予約変更。こういうときにエクスプレス予約は便利だ。

菊池氏とスバリスト君に見送られて小倉駅の改札をくぐる。「のぞみ」の車中では熟睡し、気がついたら新大阪駅到着の直前だった。新大阪で在来線に乗り換えて京都に着いたのは0時過ぎ。駅前からタクシーに乗り、洛北の自宅に帰り着いたのは0時半過ぎだった。

2泊3日の慌ただしい旅だったが、濃密な一時を過ごすことが出来た。福岡の諸氏には感謝したい。
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